デスノートを拾う(会員登録)

デスノートを取り出す(ログイン)

デスノートを書くにはノートを取り出してください。

Please briefly explain why you feel this question should be reported.

Please briefly explain why you feel this answer should be reported.

Please briefly explain why you feel this user should be reported.

がん細胞DEATH NOTE-日本で唯一がん専門無料SNSコミュニティ- Latest デス書き込み

今回の手紙は、吐き出す場所がなくて辛い時に、思い切ってあなたに向けて書かせてもらいました。

まず最初に、あなたががんという難しい病気に立ち向かっていることに対する深い敬意を表明したいと思います。

その勇気と強さは、本当に感動的です。私はあなたががんという試練に立ち向かう中で、孤独や不安を感じることがあることを想像できます。

だからこそ、私はここにあなたに寄り添い、支えようとしています。

あなたががんを患ったことで、私たちの関係は大きく変わりました。

正直に言うと、あなたの病気が私にとってただただ迷惑なだけです。毎日が不安と焦りでいっぱいですし、あなたのことで頭がいっぱいです。

最初は、「がんなんて他人事」と思っていました。でも、実際にあなたが病気になってみて、私の感情は一変しました。

怒りや不満が爆発しそうです。何であなたがこんな目に遭わなければならないんだろうと、ただただ腹が立ちます。私たちはこんなにも苦しんでいるのに、どうしてだろう、と考えてしまいます。

あなたの病気によって、私たちの日常は崩れ去りました。仕事も家庭も、全てが影響を受けています。

あなたの病気のために、私の時間やエネルギーが奪われています。本当につらいですし、私の人生が狂いそうです。

そして、あなたの病気に対する不満もたくさんあります。

たとえば、あなたの治療や行動に対する選択肢について、私はいつも不満を感じています。

あなたが何を選択しても、私は不満を感じてしまいます。本当は、あなたがもっと積極的に治療を受けるべきだと思っています。

でも、あなたの闘いを応援しています。今までどんなに大変な時でも、あなたは前向きに頑張ってきました。

その姿勢に、私は感銘を受けています。あなたの強さと勇気を信じています。

どんな困難な状況でも、あなたの心の中に光が輝いていることを忘れないでください。

最後に、私はあなたに健康と幸福を祈っています。がんという病気があなたの人生に暗い影を投げかけることはありません。

あなたは強く、勇敢であり、素晴らしい人間です。私はあなたを心から尊敬しています。

どんな時も、私はあなたの味方です。あなたががんと闘う日々は、決して簡単ではありません。

苦痛や不安、そして不条理な現実に直面することでしょう。私はそれを理解しています。

しかし、あなたは決して一人ではありません。私も含め、たくさんの人々があなたを支え、応援しています。

私たちは、あなたの苦しみや不安を分かち合い、共に歩む覚悟があります。

一緒にある場所へ行った際のことです。レストランに入った時のことでした。

あなたは料理を少し食べて、食べられないと言った時、おかしいと思ったので検査を勧めました。

それで医者に行って検査してもらった時、末期の胃がんがわかりました。

あなたには知らせませんでしたが、それ以外の家族が知ってみんな動揺していました。

どうして、毎年の検診を受けなかったのだろうかと、みんな思いました。

何か体がおかしかったら、すぐに医者に行くべきだったのに我慢していたのでしょうか。

ちゃんと毎年の検査を受けるべきでしたよ。

それが悔やまれてなりませんでした。だから、私は教訓として毎年の健康診断はきちんと受けるようになったよ。

あなたには胃潰瘍だと行って手術を受けさせましたが、今では手術をさせなかった方が良かったと、これについても悔やまれてなりません。

なぜなら、手術を受けた時から、あなたの体は急速に衰弱していくのが見ていられなかったからです。

寝たきりになってしまいましたから、みんなで介護をするのですが、あなたの顔を見るのがめちゃくちゃ辛かったです。

他にも面倒を見る人もいましたが、私は車を飛ばして1時間ぐらいかかるところに住んでいましたから、病院に行くのが本当に大変でした。

また、会社から駆けつけるときは、上司にいつも気を遣いながら時間を取るのがしんどかったです。

休暇願いを出して休んだり、午前中だけ仕事をして午後に駆けつけるという日々でした。

会社にもたくさん迷惑をかけたので、申し訳なく思っていました。

だから本当に末期癌ではなくて、早期発見をしていればこんなことにはならなかったと思います。

あなたが医療をもっと信じて、利用してくれていればこんなことにならなかったのに。

一時帰宅をした時も、本当に体が動けなくてみんなで体を支えて介護しましたけど、あなたの苦しそうな顔を見ていることができませんでした。

地獄の苦しみのような感じがしました。

病院に戻ってからも、家族で毎日病室にいきましたが、迫ってくる死期にやるせない気持ちでいっぱいになりました。

亡くなる一週間前には、無菌室のようなところに入り、面会に行ってもほとんど会話ができないほど衰弱していましたね。

死期が近づいても、できれば穏やかに笑っていてほしかったです。

仕事と看病の両立に苦しんだ日々でしたが、周りの人は愚痴は絶対に言わない方が良いですよ言いましたが、心の中では愚痴だらけの日々でした。

不平不満、文句、愚痴、悪口が時々心のなかに起こるのを抑えることができなかったです。

家内が最初に肺がんと診断されてから10年以上がたちます。

最初はまさか、あんなにお酒が大好きで豪快な彼女がまさかと。

単身赴任していた私はすぐに自宅に戻り、お医者さんのところにすぐにいきました。

診断は肺がんのステージ4。実際には肺に6センチの腫瘍、さらには背骨にも骨転移がある状態。

今考えると、私が単身赴任の間にも多少歩くとゼイゼイいったり、せきがひどいことがその症状の表れだったのでしょう。

気づいてやれなかったことは後悔しかありませんし、本人も。しかし、いつから癌があったのがといってもわからないこと。

それ以来、たまたま彼女の体には肺がんだけをアタックする分子標的薬があうこともあって、正直なところ、大きな副作用もなく生活ができました。

何よりも本人が長女、次女の成長を短い単位で区切り、成長を見守っていくことを目標にして生活していたことがポイントだったのです。

最初は2週間に1回の診断があるたびに癌の抗体ができて、薬がきかなくなるのではないか?転移があるのではないか?と気になりながらも本人が一人で病院にいくことをやめなかったので見守るほかありませんでした。

こうした日々が続き、もちろん、薬が効かなくなっても実はこうした分子標的薬が3回も繰り返し利用することができ、正直知らない方にとってはまさか家内がステージ4の肺がんとは思えないような状態で生活を送っています。

しかしながら、昨年末当たりから少しずつ検査の数値がわるくなりつつあります。

先生からも次に使える分子標的薬もなく、抗がん剤治療を含めた新たなステージに入っていかざるを得ないといわれています。

家内もいつかはこんな日が来ることはわかっていましたので覚悟そのものはできていました。友人たちにもさすがに自らが10年以上にわたってがんと闘い続けていることを告げようと決意した次第です。

有難いことに長女は自らの夢をかなえる多たちでクラシックバレエで生計を立てる、そして次女は母親の病気を治療する分野に進みたいということで生命科学を学び、来年は大学を卒業して就職というところまでこぎつけた次第です。

しかしながら、私自身は家内のいない人生など全く想定できません。

せっかく子供たちが手がかからない年齢になり、これから二人の時間が多く取ることできるようになってきたからこそ特にそう思うのかもしれません。

とにかく医学の進歩、家内の心の強さに期待していきたいと思います。

ガンが発覚する少し前まではとても元気で、急に体調が悪くなり病院に行ってガンと申告されたときには本人は本当にびっくりしたと思うし、家族もみんなまさかという気持ちでいっぱいでした。

膵臓は沈黙の臓器の一つで、気が付いたり症状がでだしたタイミングではもう手遅れということが大半だということもこのことがきっかけで知ったし、余命が半年ほどと聞いたときには本当に信じられなかったです。

でもガンが発覚したばかりの頃はやはりまだ元気もあり、普通に話ができていて本当に病で余命半年なのかなとみんなが疑問になるくらいでした。

本人も「まだ死ぬ気がしない」と言っていたこともあり、周囲も「もしかしたらガンが消滅するのではないか」と話していたくらいです。

しかしそれからしばらくして夜中に「身体が痛い」というようになりだし、寝ていられないので徘徊してしまうように家の中をうろうろしていることがわかったときには、ショックもありどうにもしてあげられないことがもどかしかったです。

もしかしたらという気持ちを捨てきれず、お姉ちゃんっ子だった私の夫も一緒に他の県の病院まで行ってセカンドオピニオンを受けたりもしましたが、やはりタイミングが遅すぎて治療する術はないと聞いた時は帰り道の車の中で夫と2人で泣きました。

その後徐々にご飯が食べられなくなっていってしまい、身体が痛いという時には病院に入院するというタイミングも3回ほどありましたが、余命わずかな時間を病院で過ごさせるのも嫌だという気持ちと、家にいても身体も痛がっているしどうにも出来ないもどかしさで精神的に家族も落ち込んでしまいました。

1人でも家族の中にガンの人がいるだけで、みんなこんなに落ち込んだ気持ちと辛い雰囲気になってしまうんだなと思ったし、なんでガンになんてなったんだという気持ちも正直ありました。

最終的には本人もとても辛かったからか、「誰か変わってくれ!」と叫び出すこともありました。

普段はとても穏やかで心優しくおとなしいタイプの義母の姉だったので、病気というのは人を変えてしまうんだなと思ったし仕方ないことなのかもしれないとも思いました。

お姉ちゃんっ子だった夫はとてもショックを受けて精神的に少し病んでしまい、その時には義理の姉のことを少し恨みました。

でもまだ若いのにガンになった姉のことを見て、健康のありがたさと命は永遠ではないことを改めて実感したし、最後は安らかに過ごしたいと思いました。

私が結婚する時、親戚でがんの人がいるので結婚することに反対というぐらいがんの家系の人と一緒になるのはともめていたのに。

いざ自分ががんになったときに、自分の事は何も言わず、私にそんなことを言ったことすらすっかり忘れている感じでそのことを知ったときに、イラっとした。

イラっとするのは当然でしょう。しかも、後から知ったことだけで姑の親戚もたくさんがんの人がいることが分かったので、そのこともむかつくと思っています。

病気をしてから、私が面会に行くたびに愚痴をたくさんいうことについて、マイナス思考の姑の事がやっぱりこうなったかと真剣に聞いていると心がダメになりそう。

マイナス思考の人と一緒にいると、周りの人たちも苦しいというけど本当だと思う。

ここに面会に来ることが、とてもつらい。どうしたらいいのかと思うほど、嫌でたまらない。

家に帰ると、主人が「どうだった?というけど自分で確認してほしいと思う。

主人と姑は仲があまりよくないので、そのように聞くのは仕方がないと思うけど、自分でお見舞いにも行けよと思う。

自分の親なのに、時間があっても嫌がっていかないので本当にむかつく。

肺がんなので、治る確率があまりよくないらしい。姑にはそのことを伝えることができない。

治ると伝えているけど、「治るはずがない、このまま楽しいこともなく死んでいくだけ」と言われる。

伝えると、とんでもなくパニックになることはわかっているので私の心におさめている。

食事はいつも完食しているらしいけど、全然食べられないという。

看護師さんは、よく食べていますよというのでどうしてそんなウソをつくのかと思う。

差し入れもしているけど、それを食べることもあまりなく捨てている感じ。どうしたらいいのかわからない。

看護をするというのは、24時間と思うと一時退院の話が出ているけど考えられない。

退院をすると、ますますわがままになり私にぶつけてくるストレスを思うと、嫌になってくる。

というか、一時退院をすることについてできないと思ってしまう。

本人は、早く退院をしたいと思っているけど、看病をする私は倒れてしまう。

一時退院を阻止したい。こんな風に思う私の考えは、間違っているのだろうか。

しかし現実として、考えると耐えれてしまう、精神的に参ってしまうのははっきりわかっている。

私の精神的なサポートは、誰がしてくれるのだろう。がんの家族のサポートが欲しい。それは、私だけではないはず。

お母さん

癌を治療しようと思って入院したら、そこで別の病気を発症。そしてそれが命にかかわるなんて思いもしなかったね。

急なことだったから、私たちもお母さんも思い残すことがあったんじゃないかな。

でもね、今考えてみると、その予兆はあったと思うよ。みんなが忠告していたことを覚えている?

家にいたけれど、だんだんご飯が食べれなくなっていたし、みんなが早く病院にいって入院させてもらった方がいいって言ったよね。

それに主治医の先生も早く入院してもいいって、許可をくれたじゃない?

だから多分その時に入院するのがベストだったんだよ。

それなのに、それから2週間家で頑張って、いよいよ入院、治療って時に、別の病気がわかって…。

結局それが原因でがんの治療がすぐに受けられなくなったのはとても残念だったね。

今思うと、素人である私のいうことはきかないまでも、なんで先生のいうことも聞かなかったのかなって疑問に思うよ。

それに、なんで体がきつくなってきているのに、それほど自宅にいたいって言ったんだろう?

もちろんお母さんがやりたいことはわかったよ。でも、それよりも自分の命のほうが大事じゃない?

まずは癌の治療が出来ると先生が言っていたのだから、それを優先するべきじゃなかったの?

結局、すぐに治療が出来なかったために、がんはどんどん大きくなり、お腹が張って苦しくなり、歩くのもままならなくなってしまったね。

私たちはお母さんだから、黙って介護をしたけれど、本当はなんで早く治療をしなかったのか?

それだけが疑問だし、あんなことになるならば、もっと早く無理やりにでも病院に連れて行けばよかったと後悔しているよ。

まだ若かったから、お母さんもやりたいことがたくさんあったんだろうね。

入院するとできなくなることも多かったから、入院前にやりたいこともあったんだろうね。

でも退院してからでもできたんじゃない?

みんなに心配されるなら、まず黙って治療を選択してもよかったんじゃない?

癌になって、みんなびっくりしてたけど、お母さんなら治るかもって期待もあったよ。

急に具合が悪くなって、介護が必要ってなった時みんなどうしようって悩みました。

だってみんなも自分のそれぞれの仕事や生活があるから。

ただ介護に専念することって本当にむずかしいね。いくらお母さんの介護といっても。

だからこそ、みんなが思う良いタイミングでの治療が大切だったと思うよ。

それでうまくいかなくても、みんなが納得できたと思う。

悔いがないと言えばウソだけど、しょうがないと思う部分もたくさんあるよ。

ごめんね。

父親が肝硬変と肝臓癌を併発して手術ができない状態で余命3ヶ月と言われた時は目の前が真っ暗になりました。

私は一人っ子なので叔父と叔母に話して本人には病名を知らせないことに決めました。

当時夫の両親が近くに住んでいて何かと用事を頼まれる事が多かったのですが父の看病が始まってからも遠慮なく頼んできて断ると嫌味を言われました。

あと僅かしか生きられないとわかっていて少しでも傍にいてあげたいのに義父母は思いやりの欠片もない人達でただでさえ辛いのに心が折れそうになりました。

父は何度か危篤になり持ち直してくれましたがそのことに関しても義父がわざとやってるんじゃないかと暴言を吐き夫が何も言ってくれなかったのには失望しました。

父は末期癌でしたが幸い痛みはそれほどでもなく意識もしっかりしていて会話も普通にできたので何を言われても毎日病院に通ってできる限り付き添いました。

父の兄弟がお見舞いに来てくれて励ましてくれたのがとても大きな力になり父も私も救われたと思います。

子供達もお見舞いに行って父と話す時間を作ってくれてうれしかったです。

義父母と夫は全く病院に行くこともなく私が行くのもよく思っていなかったと思います。

私も父もあの人達にとっては他人だから病気になったのも迷惑くらいにしか思っていなかったんじゃないかと思います。

入院中お盆になって義父母が義妹の家に遊びに行きたいと言い出した時は心の底から腹が立ちました。

明日どうなるかわからないと言われている父を無視して曾孫を見に行くと言い出したんです。

表向きは墓参りという事でしたがこの状況でどうしても行かなくてはいけないことだとは到底思えません。

しかも義父母は夫の車を当てにしていて送って行けと言わんばかりで話になりませんでした。

本当に頭にきたのでもしお葬式になっても帰ってこなくて結構ですと言ってやりました。

石川県まで車移動するのだからもしものことがあっても間に合わないでしょうし私の親族だけ集まればいいと本気で思いました。

結局義弟が石川県まで送って行きましたがその時にすぐにはくたばらないと言っていたそうです。

お盆休みには叔父たちが入れ替わりにお見舞いに来てくれて父の状態も悪くなかったので皆とゆっくり話す時間を持てました。

あの人達がいなかったので私もずっと病院にいることができて却って良かったのかもしれません。

腹水がたまっていて何度も抜いてその度に父は衰弱していきましたが8月末まで頑張ってくれました。

亡くなる日は私も子供達も意識のあるうちに会うことができ私と娘で看取ることができました。

段々と死に近づいていく父を見ているのは辛かったし思うように看病できなかったのが悔しかったです。

本当に父の事を思いやっていたのは父の兄弟達と私の子供達だけだということがよくわかりました。

病院の先生は根治を見込める、根治に向けた治療をと言ってくれたのに、最初のころは既に生を諦めているようなことばかり言っていたよね。

別に自分の人生なんだから、治療するもしないも自分の自由だとは思うよ。

けれどそれを聞いた家族がどう思うのか、どれだけ辛い思いをするのかってことは一切頭になかったんだね。

あなたがそんな言葉を吐く度に、私は死なないで欲しい、助かる見込みがあるのなら出来る限りの治療はして欲しいって心の中で祈るような気持ちで叫んでいたよ。

無事手術も終わって術後治療が終わったあとも、後ろ向きな言葉は変わらず、未だにいつ死んでもいいみたいなニュアンスのことを言うしさ。

「私はいつどうなるか分からない身だから」って言葉は確かにその通りなんだけど、もう大分病状も落ち着いてきて、現状身体の中に病巣はなくなったんだから、少しだけ家族の辛さに寄り添ってくれても良かったんじゃないかな?

あなたは「どうして患者の私が気を遣わなきゃいけないの?」って言っていたけど、患者には患者の辛さがあるように、患者の家族には家族の辛さがあるんだよ。

どれだけ当たられたって、あなたが患者である以上私たち家族はあなたに文句一つ言うことは出来ないし、例え言うことが出来たとしても、あなたは泣いて泣いて暴れるから、逆にストレスが溜まるしね。

「誰も私の辛さを分かってくれない」って嘆いてたこともあるけど、10人に話して10人があなたは間違っていると言ったなら、どうしてそうなのかもしれないって思えないの?

どうして意固地になって自分はこんなにも辛いのに!って感情から抜け出せないの?ほんの少しでもいい、家族のことをちらっとでも見てくれたら、この苦労や努力が報われるようなことを言ってくれたら、それだけで私たちも頑張れるのに。

私たちだってただの人で、ましてや医療従事者というわけでもないんだから、ただただあなたの辛さを受け止めるサンドバッグにはなれないよ。

そりゃあ実際病気を患っていて治療をするのはあなただし、辛い思いをするのもあなた自身なのかもしれないけれど、治療っていうのは患者と家族の両方が支え合って進んでいくもんじゃないの?

再発が起きていないか確認する検査にも文句ばっかり。そして血圧が少し高いだとか、そういった異変が起きて病院に行って欲しいとお願いしても「面倒臭い」で終わらせる。

どうして折角助かった命を蔑ろにするのか、私には理解出来ないや。

あなたが生きることに対して悲観的になる度に、私も生きることが本当に嫌になる。

その病気、私が肩代わり出来たら良かったのに。そしたら同じような台詞をあなたに吐けたのにね。”

母さんへ。本当によく頑張ったと思う。初めの白血病が発覚したのは、10年前位だったかな。

夏で体がだるいって言ってた。打ってもないのにあざがあって、妹となんでかな?って言ってたよね。

でも病院に行く決め手になったのは、母さんの友達の看護師さんのひとことだったね。それも、病院行ったら、即入院。

あと数日遅れてたら、危なかったって言われてて、その友達が鋳なかったら..って思うと。命の恩人だよね。

白血病で入院するって知ったのは、会社の転勤する人の送別会で見たメール。白血病って’世界の中心で、愛をさけぶ’ってな映画のイメージしかなくて。

帰って一人で泣いたなぁ。。

10年前は今より医療が発達してなくて、面会に行ったら、抗がん剤の副作用で、髪の抜ける姿や、顔色が悪くなっている様子を見るのがしんどかった。

味覚も変わったみたいで、〇〇買ってきてってよく言ってたね。

1回目の白血病の寛解前、先生にどうしても検査してほしいって頼んだら、まさかの再発。そのまま、検査を頼んでなかったらどうなってるんだろうって思った。

年齢的に骨髄移植は難しくて、また違う方法だったけど、それもなんとかクリアして、あれから7年位かな?違う病気で入院してて、いろんな検査して、もしかしたら白血病かもしれないって言われた時はなんで?って思った。

でも、それを1番感じたのは母さんだよね。再発して、何の問題もなく生きてたのに。
なんで今頃?って。原因は、初めの白血病の副作用??

しかもその時余命宣告されてたよね。何万人に1人位にしかならない稀なことで、なんで母さんに?って思ったよ。他にも病気抱えてたのに。

その時、家にいたのは父親と私。母さんは入退院を繰り返してて、退院してる時に、父さんが脳梗塞で倒れちゃったね。

でも、奇跡的に脳の後遺症だけで済んだね。あとちょっと遅かったら..って言われて。

二人とも入院してる中、じいちゃんの初盆で..お盆の準備を一人でやったのも懐かしいな。父さんが退院して、父さんとの生活がしんどくて、よくラインしてたね。

去年の秋、入院するか、通院治療するかって選択があって、自宅で通院治療って決めたね。私には黙ってたけど、本当は年を越せるかどうかだったんだね。

15キロ痩せたけど、そろそろ亡くなる人って感じはしなかった。秋頃から体調悪くなって、熱出たりして、ご飯も食べなくなって。そんな姿見るのは辛かった。

だけど、どうしてもって、合唱の大会を見にいったね。

駅まで送ったのが、母さんの元気な姿を見た最後で。その2日後、意識がなくなって、その2日後、一人で静かに息を引き取ったね。

いきなりの体調の変化に、面会して変わり果てた姿を見た時は涙が止まらなかった。

去年の4月、弟が帰ってきてお世話は楽になったけど、毎週木曜日の診察の送り迎えは私がしてて、時間に余裕がなかったのを思いだすよ。

仲の良かった学生時代の母さんの友達は、49日の前日に、5時間もかけて会いに来てくれたよ。

その友達から、母さんが私にすご感謝してるって電話で言ってた話をしてくれたよ。お世話をしてて辛いこともあったし、亡くなって辛かったけど、それで、一気に楽になった。

そんな友達を持った母さんを羨ましいって思ったし、亡くなる1週間前、歯医者に行ってたんだね。

受付のお姉さんから、突然で驚いたってお悔やみの言葉をもらったよ。

母さんが亡くなって2日後から私は仕事に出なくちゃいけなくて、多分短時間しか働いてないからだけど、気持ちの切り替えが本当にしんどかった。

いつも助手席に乘せてた車に乗って、仕事終わったら涙が止まらなくて。

だけど、そんな時何故かいいお客さんとかに出会ったんだ。

それで助けられたよ。母さんのエンディングノートに、ちゃんと会いに来てほしいって書いてたから、母さんが亡くなってから、月命日の前後に会いに行ってるけど、気づいてるかな?

また、会いに行くね。今までありがとう。

お父さんはずっとお酒とたばこをやめない人生だったから、肺がんと聞いたときも驚かなかったよ。

でも今思えば、最初は方の骨が痛い痛いと言い出して、やさぐれてお母さんの助けなんか絶対受け入れたくない姿勢を何十年も貫いてきたガンコなお父さん。

弱音を吐いたのには驚いたけど、もうその時には見栄を張ってた分発見が遅くなって骨まで転移してたゆえの痛みだったんだと後から分かったよね。

くだらない見栄と、いい大人がやさぐれて頑固になることって本当に愚かだなあ、虚しいなあと思いながら、一報を聞いて慌ててチケットを買ったその飛行機の中でなんとも言えない気持ちになりながら空を眺めていたのを思い出すよ。

お父さんはなかなかお母さんの前で素直に慣れずにやさぐれていたから、そこから9か月の家族皆からの甲斐甲斐しい介護に気恥ずかしさを感じていたよね。

お母さんも私たち子どもたちもいつでも助けになろうとしてたのにそれをつっぱねて距離を作って放っていたのはお父さんの方だってことが最後の最後に伝わって良かったと思ってるよ。

病気は大変だけど、お父さんが素直になってお母さんに感謝したり、助けを受け入れたり、一緒にご飯を食べて団らんしたりする当たり前の夫婦の関係に人生最後で戻れてそれが何よりだったと思ってるよ。ずいぶん時間かかったね。

そしてこうやって本当に大変な時に支えてくれる妻や子供たちのことを今まで放っておいて、好き勝手にどうでもいい人たちのために時間やお金を使って交友を楽しんできたことを心の底から後悔してほしい。

本当に大切にしておくべきだった人の存在に気付くのが遅いことほど愚かなことはないんだよ。

お母さんが心が大きい人だったから許して受け入れてくれたけど、本当に過分の助けをしてくれたと思うし、頭があがらない思いでいるべきだと思う。

私たち子どもにはいいけど、妻のお母さんに対しては、敬意をこめてはっきりと謝罪と感謝の言葉を口にすべきだと思う。

それができて初めて人として生きている価値があると思う。身近な人の死が近づいて私も感慨深かった、人としての人生の意義ってなんだろうって。

それはまず一番身近な家族からの信頼を勝ち得て、いつ何があっても後悔のない振る舞いを通して敬意と感謝を込めた接し方をすること。

それから次に信頼できる友人たちを作り、自分も友人たちにとって信頼できる忠節な人でいること。

最後に自由と健康などの余裕があれば、社会にとって助けになるような存在になるよう努力すること。

この真逆の生き方していたとしたら、その人は人としての価値はどのくらいなのだろうと。正直あなたの生き方を通してこれらのことを反面教師として学びましたと伝えたい。